ーOOO-このミス好み

 年末の本屋さんには「このミステリーがスゴい!」的な本が並んでいる。
 手にとってパラパラやる。
 と、小説読みの巧者たちがいかにも面白そうに、かつネタばらしをしないように(←ココ大事)小説を紹介している。
 ここ最近読書から離れているけれど面白い本が読みたくて読みたくて仕方がないワタシは、「このミス」を読むとホッとするのだった。ああ、自分が読んでいない面白い本が、まだまだいっぱいあるのだ、ということに。
 あ、年末の企画じゃないけれど、全国の本屋さんが投票して決める「本屋大賞」ってのもいいですよね。選んでる人の顔が見える気がして、何だか身近な感じがします。大賞を取ったヒトも「本を売る立場の人に選んでいただけて光栄です」みたいな、独特の嬉しさや誇らしさのあるコメントをしたりして、なーんか良いんですよねぇ。


 「このミス」とかのレビューはいかにも面白そうに紹介してあって、買って読みたくなるじゃないですか。
 でも、知らない本をけちょんけちょんにけなしてる記事とかを読むと、その本以前に記事自体に興味が持てなくなるじゃないですか。ってか、持てるはずがない。
 なんかね、Amazonとかのレビューを読んで、気持ちがしゅるしゅる萎んじゃうのがイヤなんですよ。Amazonに限らず、ネット方面のヒトが書くレビューは、全体的にカラい気がするんですよ。
 もっとも、コレは自分のアンテナが弱いだけで、ワタシ好みの本を読むレビュアーとかブロガーを探してチェックすればいいわけなのですが。
 でも、アンテナがさび付いているワタシは、お金を払って「このミス」を買ったほうが幸せになれるのでした。


 話が少しそれますよ。


 いつだったか、読んだ小説が面白かったから記事を書こうと思って、Amazonをちょっとのぞいたら不評だったので、打ちのめされてしまって書く気が萎えてしまったことがあった。
 あのときに目に付いたのは、「自分には途中でトリックがわかったから、つまらない」といった意見だった。小説のトリックが稚拙であることを言いたいのか、あるいは自分の頭の良さを自慢したいのか。
 ただ、物語のオチが先に薄々わかったとしても、そのことは小説の良し悪しに関係ないことだと思う。
 薄々わかっていても、読んじゃうとか。
 あるいは何度も読んでいてトリックも犯人も知り尽くしていても、何年かに一度、ついついまた読んじゃうとか。
 そういうのって、あるじゃん?


 「博士の愛した数式」の小川洋子さんが、「物語の役割」という本の中で、子供の頃に読んだ「ごんぎつね」の話をしていた。
 与ひょうさんが銃に手をかけたとき、何度も何度も読んだ話なのに、ああいけない、ごんを撃たないで! と真剣に願いつつ、しかしやはり何度も読んだように結局ごんは撃たれ、ことりと栗が落ちると涙が止まらなくなってしまい、本当に悲しくなってしまうのだけれど、でもその涙は不思議と嫌な気持ちではなくて、またなんどもごんぎつねを読んでしまう。物語って、そういうものじゃないでしょうか。
 そんな話だった。
 この先の展開がわかってても読んじゃう。また読みたくなっちゃう。
 そういうのってあるし、大事だとおもうんだよね。