ーOOO-「ワシントンの斧」に関する諸問題とその考察

 以前「ワシントンは桜の木を切ってない?」という記事を書いたことがあるんですが、時々検索をかけてそのページに飛んでくる方がおられます。
 んで、調べてみたんですが「?」な部分が多いので、ここに諸問題とその考察を書き留めておこうと思います。

「ワシントンの桜の木の話」はウソらしい、というのは有名な話だった

 ちょっと調べてみたんですが、「ワシントンは桜の木を切っていない」というのはトリビアの泉でも取り上げるくらい有名なお話だったんですね。へーへーへー。
 さらに2008年の夏には、「ワシントンの少年時代の住居から桜の木は発見されなかった」というニュースが報道されました。

 さて、ちょっとここでWikipediaから関連する項目を引用。

 ワシントンを崇拝する動きが、伝記での逸話の創造に繋がった。
 子供のとき桜の木を切ったことを父親に正直に話したら、かえって誉められたという挿話(ワシントンの斧 - George Washington's axe) が流布しているが、これはワシントンの死後にマウントヴァーノン教区のパーソン(牧師)、メーソン・ロック・ウィームズが子供向けに書いた『逸話で綴るワシントンの生涯』の中で、「嘘をついてはいけない」という教訓のために書いた作り話であるとも言われているが真偽は明らかでない。
 通説ではワシントンが子供の頃、つまり1745年前後にはアメリカ大陸には桜の木はなかったとされている。この話は初版から第四版まで掲載されず、1806年の第五版から掲載された。

ジョージ・ワシントン - Wikipedia

だれがこの物語を作り上げたのか?

 さて、ここで謎の人物「メーソン・ロック・ウィームズ牧師」が登場してきます。いったい彼は、どんな牧師だったのでしょうか?

 ウィームズはまたワシントンがバレーフォージの近くの森で祈りを続けたという話も創り上げた。
 ウィームズの経歴も「マウントヴァーノン教区」なるものは存在せず*1、事実であったかどうか疑わしい。

ジョージ・ワシントン - Wikipedia

 ここで「メーソン・ロック・ウィームズ」で検索をかけてみます。

 上記のページをエキサイト英語翻訳の結果を参照しながら引用しますと、

 メイスンロックウイームズは、ジョージ・ワシントンの有名な桜の伝記の作者として知られていますが、主として行商人でした。
 18世紀後半から19世紀前半にかけて、アメリカ南部に点在している孤立した町で本を売っていました。
 読者に会って、読者と話して、彼は読者の文学の好みを知っていました。
 彼は定期的にどのように書籍販売業務を最もよく行うかに関して彼のパートナー、フィラデルフィア出版社マシューケアリーにアドバイスさえしました。
  ー後略ー

 最初は司教学長として福音書を売り歩いていたウィームズ牧師。やがて文章を読者の好むようにどんどん書き換え、あるいは物語を作り上げ、次々と本を売り歩いていったのです。


 以下私見です。
 福音書を売ることはキリスト教を伝道するのと同じ事です。「売りたい」=「宗教を広めたい」。より「売りたい」という気持ちが高まった結果、ウソの物語が流布することになってしまったけれど、それで良かったんでしょうか?
 しかし、「福音書」や「子供の道徳の教科書」が求められる役割、というのはあるはずです。子供に「ウソをついてはいけない」ということを説くにはどうすればよいのか? というのを考えたときに、より読者の好みに合うような形の物語が作られたのでしょう。
 当時のアメリカは全く新しい国で、歴史や伝統が全くない状態でした。そういうなかで、「歴史的な偉人」の存在を無意識に国民が求め、それがジョージ・ワシントンという存在とマッチしたのではないでしょうか。

ところで、桜の木は日本が100年くらい前に贈ったんじゃなかったっけ?

 さて、そもそもの私の疑問は
「桜の木は、日本が100年くらい前に贈ったんじゃなかったっけ?」
ということでした。

 こちらのページを参考にすると、日本の桜に感動したフェアチャイルド博士が、1906年ワシントンの近くのメリーランド州にある自分の庭園に25種類の日本の桜を植えて育てることが出来るか試みた、というのがアメリカの桜の事始めのようです。
 ウィームズがワシントンの斧の話を初めて書いた「ワシントン伝・第五版」が発行されたのが1806年。
 あれ、100年ズレてるじゃん?
 「ワシントンは桜の木を切っていない」ということはわかったんですが、じゃあなぜ当時アメリカには存在しなかった「桜の木」が物語に登場したのか、という謎が棚上げになってしまうのでした。


 ヒントは、"George Washington's axe"で画像検索をかけているときに見つかりました。

 あれれれれ、サクランボだ?
 cherry-brossomは確かに桜なのですが、物語に出てくる樹がcherry-treeである以上、それは"cherry-brossom"=桜ではなくて、"cherry"=サクランボ(チェリー)だったのではないでしょうか。

哲学的なジョークとしての「ワシントンの斧」

 んで、用例なんかを調べていてわかったんですが、「ワシントンの斧」という言い回しは、必ずしも正直さの道徳を説くとは限らないことが分かりました。

「この斧こそが、我が家に先祖代々伝わるワシントンの斧なんだぞ」
「それにしちゃピカピカじゃないか」
「古くなったから柄の部分を取り替えて、サビてきたから刃の部分を取り替えて、大事に大事に使ってきたんだ」
「まるっきり元が残ってないじゃんかよ!」

 上に書いたようなニュアンスのアメリカンジョークとして使われるみたいです。
 で、これ、すごくベタベタなネタなので、「ワシントンの斧」で「あれこれ取り替えて元が残ってない様子」を示しちゃうらしいです。
 また、「ワシントンの斧」は哲学的な問題も示すようです。

 ワシントンの斧が存在するとしよう。
 その斧の柄の部分を取り替え、刃の部分を取り替えたとしたら、それは元の斧と同一であると言えるだろうか?
 同じように、「私」という人間について考えてみよう。
 新陳代謝を繰り返しながら全ての体細胞が入れ替わったとき、「私」は以前の「私」と同一だと言えるだろうか?

 あわわわわ、奥深い哲学の扉がバーンと開いちゃって、どうまとめていいんだかわかんなくなってきたんですが。


 ワシントンの斧に関する問題がわかったような、奥深くなっちゃったような、混乱したアタマのまま今日の日記はここでおしまい!

*1:バージニア州のマウントヴァーノンにはジョージ・ワシントンプランテーションが存在する