ーOOO-反省しない

 歯医者の会計を済ませて予約をとったときのこと。
「今度の治療は時間がかかります。1時間ほどお時間かかりますが、いつがご都合よろしいでしょうか?」
 それは虫歯の深さ、治療の困難さを予感させた。


 そして今日。
 ワタシは覚悟を決めて今回の治療に望んだ。
 空は青く、気持ちのよい、最高の休日。…のはずだったが、足取り重く自転車をこいで歯医者に向かった。


 まず最初に麻酔だ。
 歯医者に限らず、フツーの医者でも、注射をする時にワタシは針が見られない。とにかく目をつぶって、顔をそむけて、歯を食いしばる。
 それが歯医者の場合は歯を食いしばることができない。口は大きく開けっ放しだ。
 とにかく最初の一突きの瞬間の「ぐさっ」という手ごたえ、というか歯茎ごたえの感じがイヤだ。それにともなって「ぐ、ぐぐぐっ」と何か圧力が加わる感じがイヤだ。でも麻酔は一カ所うってしまえば、あとはワケわかんないので良い。センセイは何カ所も注射しているらしいが、だまって我慢する。
 と、センセイはもう一本麻酔を取り出して来た。麻酔を二本打ったことはなかったので、この先の治療の困難さを思った。
 憂鬱。
 でも麻酔のおかげで、もう痛くない…と思ったら、さっきまでは奥歯の外側だったのが今度は内側に打ちはじめた。
「ぐさっ」
「ぐ、ぐぐぐっ」
 気が弱いので、もう精神的にヤラれる。
「はい、うがいしてください」
 ゆっくりと椅子が起きるより早く、あわてて頭を起こす。
 と、口の中に苦い汁が溜まっているのが分かる。たぶん麻酔なんだろうか。この苦い汁を飲み込んでしまったら眠れるんだろうか、あるいは飲んだら毒なんだろうか。そう思ったが、苦さを口の中に止めておくのがイヤで、うがいをする。
 うがいを終えて、椅子にすわって待つ。先生は他の患者さんの治療をはじめていた。
 黙って先生が戻って来るのを待つ。
 いや、待っているのは先生じゃなくて、麻酔が効くのを待っているんだ。麻酔が深く、歯の奥の神経に届くまで。
 待つ。
 待つ。
 待っている。
 いつもなら窓の外の風景を眺めたりするのだが、今日は何をして良いのかよくわからない。
 治療台のテーブルの上のドリルなんかが並んでいるところに、見たことがない物がおいてある。変なタイマーに電極がついたようなもの。それと、針がたくさん刺さったもの。今日はこれから、何に使うか分からないもので、何かわけの分からないことをされるらしい。
 もう不安も感じない。ただただ憂鬱。
 道具を見ていられなくなって、ボ〜ッとどこかを見つめる。時間がどんどん過ぎて行く。
「はい、おまたせしました、では椅子を倒しますよ」
 いつもより長く待った気がする。観念して口を開ける。
 ゴリゴリけずられる。
 麻酔の効き目は確かで、全くいたくない。リラックスはできないが、少し安心する。
「…これはけっこう深いな」とセンセイが言う。
 ゴリゴリ削る音が止む。
 イヤな予感がする。というか、不安になる。
 別なことが始まった。口のはじっこに電極のクリップが挟まる。
 何が起こるんだろう。
 不安で不安で目を開けられない。
 奥歯のあたりに、なにか感触がある。
 ぶつっ。
 またなにかを使って、ぶつっ。
 何が起こっているのか分からない。が、多分神経を抜いているんだと思う。
 ぶつっ。
 ぶつっ。
 奥歯の神経を抜く。これは神経の引きちぎれる音。そう思うと、「神経を抜く」という言葉の重みに、気が遠くなりそうになる。ちっとも痛くないけど目をぎゅっと閉じて耐える。


 すべては終わった。
 なんだかげっそりして、すごくぐったりしている。
 次回の予約を済ませる。
 歯医者を出るが、麻酔が効いてふらふらなのだが、どこで時間をつぶせばいいのか分からない。
 スタバは… 飲食は止めといたほうが良いだろう。
 パチンコは… ふらふらな時に打つとバカ負けするだろう。
 本屋は… 立ち読みするにもちょっとふらふらだ。
 空は青くお出掛け日和だったが、どこかに行きたい気持ちはもう無かった。
 しかたなく家に帰った。
 家でテレビを見る気にもなれず、ゲームもパソコンも別に。そしてけっこう明るいうちから眠った。全体的にぐったりしていた。
 目が覚めたらマリーンズが10ー1で勝っていた。
 食欲はなかったが何か食べなくちゃ、と思った。
 けれど口の中の詰め物は独特の薬臭さと味がして、何を食べてもちっともおいしくなかった。


 こんなにひどい目に会うなら、もっときちんとていねいに歯を磨かなくちゃな、と反省するけれど、いつもそう思うだけで、続きゃぁしねえのだった。