ーOOO-洋食屋さんのポークソテー

 あれはたしか、池波正太郎の「散歩のとき何か食べたくなって」だったか「男の作法」だったかを読んだときのこと。
「給料が出たら、月に一度は社会勉強だと思って、自分の金でおいしいものを食べに行きなさい」
みたいなことが書いてあった。
 ははあなるほど、コレがどうやらオトナの第一歩なのかもしれないね…と、散歩のとき思い切って美味しいモノを食べに行こうとしてみたことがあった。
 ちゃんとしたレストランに行くのはまだ早いかなぁ、自分には敷居が高いかなぁ?
 ということで、初めての贅沢の舞台には洋食屋さんを選んでみた。


 んで、あれこれ調べて、ある有名な洋食屋さんに行った。
 そこはこじんまりした店だったのだが、大正時代というか昭和初期みたいな風格のある店構えで…というか、もう思い出せないのだが、それくらい舞い上がっていた。
 自分一人きりだったので、なかなか店に入る度胸が無く、うつむいて店の前を何度もウロウロしていたことは良く覚えている。
 とそのとき、老夫婦がその店に連れ立って入っていった。
 それを見て「何も怖いことはない」と思い、意を決してその扉を、くぐった。


 第一歩目にまず、厚ぼったくてふかふかなカーペットにびっくりした。堅いんだけど毛足が長くて、ふんずけた瞬間の感触が無いようなカーペットだった。
 席に着くと、これまたふかふかの分厚いテーブルクロスにびっくりした。皿やナイフの音がしないようにという気配りだろうか。うーむ、すっごい。
 店員さんの衣装はメイド服だった。その当時はまだメイドさんのブームではなかったけれど、いかにも大正ロマンといった感じの飾り気の少ないメイド服を着た、小太りのオバサンが注文を取りにきた。
 ところで洋食屋では、何を頼めばいいのだろうか?
 とりあえずビールを頼んでから、メニューの上から下までとっくりと眺めた。
 何かすごい贅沢をしようかなあという気分の時に「オムライス」「ハンバーグ」「エビフライ」「ロールキャベツ」とか書いてあっても、当時の自分にはどれもピンと来ない。
 自分にはちゃんとしたレストランはまだ早いかなぁということで洋食屋さんに来たけれど、それさえもどうやら自分の今の気分には合っていなくて、やっぱりレストランに行くべきだったのかなぁと、ボンヤリ感じた。
 ビールをオバサンが持ってきて、「ご注文は?」と尋ねてきた。
 何か決めなければ。
 あわてて、顔がカアッとなる。
 と、メニューのすみっこに「ポークソテー」とあった。
 ポークソテー
 なんだろう?
 洋食屋さんのポークソテーって、どんなものなんだろう?
 で、ポークソテーを注文した。


 もう、これだけのことで一仕事を終えたような気分になって、ようやくビールをいただいた。
 瓶ビールには、ちいさなグラスが添えられていた。細くてやや背が高い、一息でビールが飲み干せるようなちいさなグラス。飲み口がすこしラッパのように広がっていて、ガラスが薄くなっている。
 その、上品で高級そうで割れやすそうなグラスにビールを注ぎ、ゆっくりと飲みはじめた。味なんかわかりゃあしない。
 飲み終えたグラスをテーブルに置こうとしたときに、少しとまどった。あまりにもテーブルクロスがふかふかだったので、背が高くて底が小さなグラスを置くのには気をつかうのだった。
 グラスの中のビールを少しでも揺らしてしまうと倒れそうに感じたけれど、むしろ飲み進んで、グラスが空になった時の方がテーブルに置いたときに頼りなくて、今にも倒してしまいそうだった。ビール瓶をテーブルに置くときさえも、今にも倒れそうな気がしてきてヒヤヒヤする。
 ビールを飲んでいるだけのはずなのに、緊張してどんどん喉が渇いてくる。


 緊張しているうちに、あつあつのポークソテーが運ばれてきた。
 分厚い豚肉が一枚、皿の上に、ドーンと。
 ポークソテーと言えば、そうだよな、こうだよな、と思いながらも、自分は何か少し贅沢をする気分だったはずなのに、と首をかしげる
 豚肉が、ドーンと。
 んんん、贅沢、なのか…?
 しかしそれでも「洋食屋さんのポークソテーとはどんなモノなのか?」と期待しながら一口食べてみる。
 分厚い豚肉は、分厚い豚肉の味がした。
 そうだよな、こんなモンなんだよな、豚肉だもんね。
 そこから後は、細かい奥深い味とかそういうのはまったくわからず、ただただ緊張して、何がノドを通っても味が良くわからないままに終わってしまった。


 そういうワケで、コレがどうやらオトナの第一歩だったらしいのだが。
 なんだかスタートからつまずいてしまったので、今でもワタシはオトナになれないままでいるのだった。