ーOOO-土佐選手のこと

 今日もいつものように仕事だった。
 いつものようにラジオをつけると、いつもの番組ではなくて、今日は北京オリンピック女子マラソンの中継だった。
 FM・AMあわせて全国101社の民放ラジオは、この北京オリンピック女子マラソンを放送していた。他のオリンピック競技とは別格の扱いだ。
 どういうわけだか日本人にとってマラソンは特別な競技らしい。なぜだかわからない。だけど自分も年をとるにつれ、いつの間にかマラソンが好きになっていた。
 ウチの工場の騒音の中では、ラジオの声はかき消されてしまう。とはいえマジメにラジオを聞いていたら仕事にならない。仕事の邪魔にならない感じが丁度良い。
 聞くとは無しに、切れ切れに女子マラソンを聞いていた。


 9時半、レース開始1時間後のこと。
 突然、アナウンサーの絶叫。
「土佐が先頭集団から遅れはじめています」
「土佐が苦しそうな表情をしています」
 細かい実況の模様は、工場の騒音にかき消されて、何が起こっているのかよく聞きとれない。
 ラジオは先頭集団の様子はそっちのけで、土佐の様子を実況し続けた。
「痛む右足を引きずるように走っています」
「土佐は泣きながら走っています」
 アナウンサーの悲痛な叫びがするたびに、土佐に何かが起こったのではないかと気になって仕方がない。
 なんだか土佐の状況が気になって、仕事に身が入らない。落ち着かなくて、なんとかしてあげたい気がするけれど、どうにかしてあげられるわけがない。


 素人考えだが、痛むのなら誰かがマッサージをすればよいのにと思ったが、レース中の選手に誰かが触ればリタイアになってしまうのだから、それは不可能だ。
 土佐選手が立ち止まって、自分自身でストレッチなりマッサージなりでもすればいいのにと思ったが、そんなことで治まるような痛みではなかったのだろうし、土佐選手には「一度立ち止まれば、もう走れない」というような気持ちがあったのかもしれない。
 「体調が悪いのだから今回はリタイアして、次のレースで頑張ればいいじゃないか」と言ってあげたくなるが、そう簡単なものでもないだろう。何しろこれはオリンピックなのだ。次は4年後。あまりにも、長い。土佐選手は現在32歳。4年経てば36歳。冷静に判断すれば「次」は、無いのだ*1
 土佐選手は「(北京五輪を最後に一線から退く)いい区切りかな、という思いはある」「今までやってきたことのすべてを出す。しっかりと最後まで粘ってゴールしたい」とコメントしていた*2
 これが最後、何が何でもゴールまでたどり着きたい、ここで立ち止まるわけにはいかない…。そんな気持ちがあったのではないだろうか。


 10時を過ぎたころから、アナウンサーは先頭争いの様子を伝えはじめた。
 それはマラソンの実況として正常な、あるべき姿に戻ったのだけれど、土佐の話題は一言も出てこなくなっってしまった。
 どうしたんだろう、土佐選手。
 もうリタイアしてしまったんだろうか? それを聞き漏らしてしまったんだろうか?
 ますますレースが気になって、私は仕事どころではなくなってしまった。
 レース開始から2時間後、10時半になったころ、
「土佐はまだ走っています」とアナウンサーが伝えた。
 仕事中なのに、私は思わず涙ぐんでしまった。


 ニュースで見たところ、痛みをこらえて走る土佐選手に「がんばってー!」と声援を送る観客がいた。
 あれだけ頑張っている人に、というか身体のことを考えればむしろ頑張らないほうがいいんじゃないかという状況の人に、「がんばってー!」と声をかけるのは、どうなんだろう? ちょっとためらってしまう。
 とはいえ、ああいう状況でどんな声援を送ればいいのか、自分には思いつかない。やっぱり自分も「がんばってー!」と声をかけてしまうだろう。
 以前、自分が10キロマラソンを走ったときの体験で言えば、見知らぬ人に「がんばってー!」と言われるのは嬉しいもので、不思議と力がわいて来るものだ。
 この日のラジオ中継のゲストだった欽ちゃんは、24時間テレビのチャリティマラソンランナーとして70キロを走ったことがあるのだけれど、
「(24時間テレビの時、自分は)足が痛む中、頑張って走った。応援する声や顔が見えると、やめたいと思ってもやめられない。それでも走った土佐選手に泣けてきた。」と語った*3


 土佐選手は15キロ地点から足の痛みが酷くなり、Yahooスポーツの速報では
「土佐は、歩いているようなペースにまで落ち込む 」
「土佐は、いつ止まってもおかしくないほど、苦しい表情で一歩一歩進んでいく 」
と書かれるような状態だった。
 だが15キロ〜20キロ地点のラップタイムは20分34秒、このとき時速は15キロ。
 20キロ〜25キロ地点のラップタイムは約28分、時速は約10キロ。
 ひとくちに時速10キロというが、時速10キロで走り続けることがどれほど大変かは、市民ランナーならわかるはずだ。
 痛む足を引きずりながら、それでも土佐選手は決して歩いていたわけではない。必死で走り続けていたのだ。


 足をひきずり、泣きながら懸命に走ろうとする土佐選手に、沿道にいた土佐選手の夫は「もういい。やめろ」と叫んだ。*4
 25キロ付近でコーチに止められ、力尽きた土佐選手は並走していた夫に背負われ救急車へ。「あー」と悲鳴のような声を上げ、おえつした、という。


 ラジオから「土佐選手、棄権」の一報が流れたとき、私は「残念だなぁ」と思ったし、悲しい気持ちにもなったけれど、土佐選手が身体を本当にダメにしてしまう前にリタイアを選択したということにホッとしました。
 今回のレースで土佐選手のマラソン選手生活に、ひとつの区切りがついたのだと思います。
 土佐選手、おつかれさまでした。

*1:ところで今回のレースで優勝したトメスク選手は38歳なので、年齢面だけを考えれば次は「あり」なのですが、さて土佐選手はチャレンジするでしょうかね?

*2:http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/sports/news/CK2008081602000064.html

*3:http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20080817-397570.html

*4:http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200808170280.html