ーOOO-カオナシと神隠し

 「千と千尋の神隠し」は、神隠しの物語なのですが。
 んじゃぁ「神隠し」って何なんだろうか?というお話を、ひとつ。


 たとえばそれは、江戸時代の…あるいはもっと昔々の物語。人里離れた山の奥の、小さな村の物語。
 あるとき、少女が行方不明になったとする。
 村人は全員総出で少女を捜す。八方手分けして三日三晩か一週間か…しかし見つからない。
 いつまでも村中総出で少女を捜していては、村の農作業に差し障りが生じる。
 というときに、長老が「これは神隠しに違いない」と宣言する。
 これによって村の一同は、日常生活に戻ることが出来るのだ。


 しかし実際には、神や天狗の仕業であろうはずがない。
 現代的に考えるならばそれは失踪なのかもしれないし、間引きのための口減らしだったのかもしれないし、誘拐されたのかもしれない。あるいは崖から転落するなどの無残な事故死を遂げていたとしたら、それを長老と発見者だけが心の内に秘めて手厚く葬り、両親には「神隠しだから、神様の元で幸せに暮らしているに違いない」とウソをつくのも方便かもしれない。
 真実はともかく、「これは神隠しである」と宣言することで全てはうやむやになり、全てはうまくいくのである。


 さて、神隠しにあったはずの少女が、数年後にふらりと戻ってきた、とする。
 なぜ彼女は行方不明になっていたのか? 行方不明になっている間、何が起こっていたのか? 村のみんなは根掘り葉掘り聞きたがるだろう。
 そのとき、長老は「これは神隠しだったのだ」と宣言する。
 これによって、少女は「そうです、私は神様のそばにいたのです」とウソをつくことが出来る。
 彼女は全てを神様のせいにして、自分の身に起こった本当のことを言わずに済む。そして村のみんなはそれ以上深く彼女を詮索することが出来なくなるのだ。「これは神隠しである」と宣言することでうやむやになり、うまくいくのである。
 「神隠し」というのは、そういうシステムなのである。


 んで、千と千尋の神隠しの話だ。
 この映画の公開は2001年7月20日なのだが、その一年半前の2000年1月28日には新潟少女監禁事件(→wikipedia)が発生している。この事件は、誘拐された少女が9年2ヶ月も監禁されていたという事件だ。
 こういう事件は旧来なら「神隠し」と呼ばれたであろう事件であり、そしてこの事件こそが千と千尋の神隠しのストーリー上に大きな影響をおよぼしているのではないか、と私は考える。


 アニメ映画の主なターゲットは、子どもたちである。
 あの映画では、千尋カオナシがおっかけっこするシーンを通して、
「見知らぬ人から美味しいモノやお金をもらってはいけません」
「見知らぬ人についていくと、とんでもない目に遭いますよ」
というメッセージが子どもたちに、なんとなーく刷り込まれればそれで良かったのではないか。
 童話の「赤ずきんちゃん」が、「男はオオカミだから、気をつけなさい」的なメッセージを秘めているような、そういう道徳的な物語なのだな。
 そういうわけで、「赤ずきんで言うところのオオカミ」=「千と千尋の神隠しカオナシ」=「幼女にいたずらしようとする者」なわけだな。


 で、赤ずきんのオオカミならば、最後に撃ち殺されて終わりなのだが。
 千と千尋ではカオナシにもメッセージが送られている。
 千尋カオナシのおっかけっこのシーンでは「ありったけの金を使っても手に入らない物がある」、銭婆の家で糸を紡ぐシーンでは「遊ぶだけが人生の楽しみではない、コツコツとマジメに働くことの中にも楽しみや喜びはある」というメッセージが感じられる。


 ついでに言うと、父親と母親がブタになる一連のシーンからは「無料だからと言ってあさましいことをしてはいけない」「誰も見ていないからと言って何をしても良いわけではない」というメッセージが感じられる。
 そんなふうに見ていくと千と千尋は、子供だけでなく大人に対しても「〜するべからず」的なメッセージにあふれている。


 アニメというのは子供が見るものだから道徳の教科書的であるべきだ、というのはディズニーの白雪姫のころからある発想だ。白雪姫を繰り返し見た子供は「朝起きたら顔を洗って歯を磨こう」「男の人は外で働く」「女の人は炊事洗濯」みたいな概念をガッチリ植え付けられながら大きくなるわけだな。
 千と千尋でも、炊事洗濯だけでなく、様々な手伝いや仕事をするシーンが出てくる。
 だから千と千尋は、繰り返し見られることを前提とした「子供かくあるべし」という道徳的かつ教育的なメッセージの多く含まれた映画なのである。
 と同時に、先に述べたように「大人、かくあるべし」というメッセージも多く含まれた、オヤジの小言集的な、ありがたくも説教臭い映画なのである。


 …と、ここまで書いておいて何なのですが、実は先に述べた新潟の事件が発覚する以前に、すでに映画のタイトルは決定していたということなので、以上の推理はまったくの大ハズレなのである。
 長々おつきあいいただいたのに、どーもすいませんです。