ーOOO-東大の地下に埋もれた歴史とは

 
 これやこの、あっ、赤門っ!
 キタッ、キタ----ッ!
 おとっつあん、おっかさん! アナタの息子はいま、東大の赤門をくぐりましたよ!
 ついつい唄を口ずさんでしまうオレ。
 ♪ みーやーこーのー、せーいーほぉくー…
 …と、ここまで打ち込んで、あ、これ、早稲田大学の歌だっけ、と気がついた。
 はて、東大の歌って?
 …うーん?
 ま、ここでは割愛させていただくこととして。
 
 ところで、いまでこそ「赤門 = 東大」というイメージになってしまったのですが、ホントはそうじゃないらしいですぞ。
 赤門というのは本来、将軍家の娘が大名に嫁いだときに、その娘が居住する家の門を赤く塗ったものなのだそうです。だから、ほんとうは全国各地に、そして江戸にいくつもの赤門が存在していたそうです。
 で、東京大学というのはこの地に多く集まっていた大名屋敷の跡に建っています。この地にあった加賀藩邸に、第12代藩主前田斉泰が第11代将軍徳川家斉の第21女・溶姫を迎える際に造られたのが、いわゆる東大の赤門なんだそうです。
 赤門は、焼失した際に建て替えないという習わしがあって、度重なる江戸の大火や、関東大震災、そして東京大空襲によって多くの建築物が損なわれた中で、都内で唯一残った赤門が、東大の赤門だった… と、そういうわけなのです。
 
 んで、加賀屋敷がどれほど広かったのか、当時の古地図の上に、現在の東大の建物配置を黒の実線で記したモノが、こちら。
 写真中央上が、いわゆる三四郎池。この池は加賀藩邸の庭園の一部だったのですな。
 写真中央部の点線を境に、右側が姫のための家なのですが、とにかくチョー広いですな!
 左側の部分には長屋状に家臣が住んでいたことがうかがえるわけです。
 …え、広さが判らないって?
 じゃあ、写真の中央部分、赤枠で囲われた「発掘調査区」と言う部分に注目してくださいね。
 それが、こちら。
 
 
 バクゼンと広すぎて、写真だと伝わりにくいという事例なのですがー。すいませんすいません。
 現在、東大の図書館前の部分を広く広く発掘調査中なのです。
 東大図書館が手狭になったため、さらに図書館の蔵書能力を高めるために地下10階の施設を建築する予定なのだそうです。
 で、掘削工事のついでに、東大の地下に眠る加賀藩邸の遺跡を発掘調査しています。
 ワタシはこの発掘調査の一般公開日に、ちょっと見学にやってきた、というわけです。
 
 江戸の町を何度も襲った、大火や震災。
 大火が起こると、火消したちは消火に当たるというか、燃えそうな家を次々に打ち壊して、その先に燃え広がらないようにしていました。
 火災の跡は、一面焼け野原、そしてゴミの山。
 そのあとで家を建て直すには、きれいに焼け跡のゴミをさらってから家を建てるのか? というと、そんなことはなかったそうです。
 ほどほどにゴミをさらったら、その上に1mから2m程度の盛り土をして、その上に家を建てる、ということをしていたそうです。
 このため、地下を掘っていくと、土の色が変わる部分や踏み固められている部分が散見され、コレを注意深く観察していくと以前の町の様子がわかります。
 東京に限らず、世界の都市の地下にはこういうものが多く眠っていて、これを「都市遺構」と呼ぶのだそうです。
 
 で、現在は東大の図書館の前を掘っているわけなのですが。
 この写真の真ん中に存在する丸いものは、噴水池の跡です。
 その周囲に規則正しく四角く存在するのは、この場所に以前建っていた、東大の旧図書館の跡になります。
 東大の旧図書館は、関東大震災のときに火事になり、70万冊の蔵書とともに焼失してしまいました。
 このときの火災の教訓から、再建された図書館の前には消火用水の巨大なため池が作られました。それが、先に説明した中央部の噴水池になるわけです。
 先に述べたように、この場所での都市遺構は、おおむね大火・震災・空襲といった、火災をきっかけにして地面が積み重なっています。
 こういう火災跡の地面には広く赤い土が広がっています。これは火災に熱せられたことで出来た「焦土」なのだそうです。

 旧図書館の基礎部分の焦土には、多くの灰が含まれていました。これは、他の時代、他の発掘地点では見られない、特別な現象でした。
 このためこの灰は、関東大震災で旧東大図書館が焼けたときの70万冊の蔵書の灰であると推測され、その火災の規模をうかがい知ることができます。


 旧東大の地層から下に掘り進むと、江戸時代の加賀屋敷の様子が浮かび上がってきます。
 あちこちの穴ぼこから、当時の生活をうかがい知ることが出来るわけです。
 
 古地図の間取りを頼りに発掘調査を進めていけば、たかがゴミであっても「これは家臣のゴミ」「これは御殿のゴミ」という違いがわかります。
 家臣たちが食べていた貝と、御殿で殿様や姫が食べていた貝では、デカさがぜんぜん違うことが判ります。
 
 これはトイレ。
 えー、こういう部分から大きいブツが出てくることはないのだそうでして−、なぜなら当時上屋敷のブツは、栄養価の高い肥料として大変珍重されておりまして−、そのー。
 
 この植栽痕というのは、大きな庭木の動いた跡だそうです。
 ここに大きな樹を植えたのか、あるいはどこかに動かしたのか? 当時の庭がどんな風景であったかをうかがい知ることが出来そうです。
 
 この穴は、地下室です。あちこちにボコボコ空いていて、よく見ると他の写真にもたくさんうつっています。
 「なるほど、大名屋敷だから秘密の地下室がいっぱいあったんだな…」と思っていたら、そうではないらしく。
 江戸時代は、火事があった場合に避難するための部屋として地下室が作られるのが一般的で、多く存在していたのだそうです。
 この「地下室を作る」という文化は、明治時代に入ってから急速に廃れたのだそうです。
 水道の普及により、破壊消火ではなく、きちんとした水による消火が可能になったからです。人々は火災の不安から解放され、避難用の地下室を作る必要がなくなったからです。
 そこに起こったのが関東大震災でした。
 見学会の解説をしてくれた、東大の先生はこうおっしゃいました。
「もしもこのとき、「地下室を作る」と言う文化が残っていたら、10万人以上が焼死するような事態にはならなかったのではないか、と思うんですね。
 科学はどんどん発達していって、右肩上がりに社会は良くなっていくように見えるけれど、そんなに簡単なモノではないんだ、ということがおわかりいただけたでしょうか」


 江戸、昭和、平成という時代の重なりを一目で眺める不思議な見学会でした。
 歴史の節目節目には大きな災害があり、火事があり。
 そういう重なりを、知らないうちに踏みしめながら、現代のワタシたちは生活しているのです。

 現在、Fans:Fansさんとイーモバイルさんの「Nexus 5モニターキャンペーン」に参加しています。
 今回の記事の写真は全て、Nexus 5で撮影したものをそのままアップしました。5インチの大画面なので、どこにピントが合っているのかが掴みやすく、大変重宝しました。


 せっかくなので最後に、紅葉が美しい三四郎池の写真を。
 


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